オオバナ日記

「分ければ解る」をモットーに、私・ソケイの雑記をお送りします。

「感じない」は「無い」じゃない。

 

 

こんばんは。ソケイです。

臭いものには蓋的な教えられ方をされてきた方は多いと思うんです。

でも、蓋しても無くならないんですよ。

そのうえ親を憎むのは人非人みたいなことも言われるでしょ?

蓋ばっかりして溜まっていく一方じゃあ、いつか限界が来ますよね。

だからどこかで消化していかないといけない。

私たち人間にだって容量がありますからね。

 

感情なんて当たり前に湧いて、誰でも持っていて、

どんな感情にも優劣はありません。

憎しみだってそうです。確かに負の感情ではあるけど、

感じちゃいけないなんて禁止されるもののはずはないですね。

しっかり憎しみも怒りも悲しみも感じていいんです。

周りには悪いことだと言われてきたかもしれないけど、

貴方の中の事実として、感情が生まれたんですから。

よかろうが悪かろうが存在して、貴方の一部となっている。

だから自分で選んでいいんですよ。

感じて消化していいんですよ。憎むことで繋がろうとしなくていい。

蓋をすることでなかったことにしなくていい。

確かにある憎しみだって貴方の一部で、存在している。

だからなかったことにして自分で首を締めなくていいんです。

感情を認めることが、悪いことのはずがないんですから。

  

 

 

私の周りにはカッコいい大人がたくさんいる(”粋”の意味考察)

私の周りにはカッコいい大人がたくさんいる。

ともかく、カッコいいのだ。

単に見た目がいいとかじゃない。

それなら私は「美形」とか「美人」って書くから。

ここで言う「カッコいい」は「粋」に近いとおもう。

「粋」って言っても、その道の人たちじゃないよ。

粋、っていうのは「自分を体現している」×「美しさ」の形なのかもと思う。

 

歳をとったから…

結婚してるから…

お母さんだから…

仕事があるから…

 

なんて言い訳は、彼らに存在しない。

そんなものは当たり前にあるんだもの。

その上で、彼らは自分を体現し続けてる。

言い訳をするなんて、辞書にないみたい。

 

批評家でもなく、分析家でもなく、行動家な彼らに出会うことは、

私の奮い立たせてくれる。

ああ、あんな風に歳を重ねる生き方をしよう、と勝手に鼓舞される。

 

ありがたいことに、十代の頃からそんな大人に出会い続けてきた。

おかげで歳をとることに恐怖でなく憧れを抱くようになった。

あんな風に生きれるなら、おばあちゃんになるのも悪くないって思う。

若くてぴちぴちも、もちろん可愛くて素敵だけど

「粋」ほど囚われるような魅力はない。

「粋」は年齢問わず、自分で育てることができるから。

それって限りがないこと。

つまりは無限だ。

 

無限を自分で生み出せるなんて、最高じゃないか。

だから

カッコいい大人は、最高なんだ。

 

 

あなたには失敗する権利がある。

 

こんにちは。オオバナソケイです。

 

 

「失敗は成功の元」という言葉もあるくらいですから、

失敗を肯定的に捉えてきた人は昔からいたのでしょう。

失敗学の本だって出版されているくらいですからね。

ですが。

「受け入れられない」
「この言葉が腹落ちしない」
「言葉はわかるけど上手く実行できない!」

という方。そして落ち込んでしまう方は、実は多いんじゃないでしょうか?

そんなところで、今日は「失敗」についてです。

 

 

 

 

 

 そもそもなんでも「失敗=悪」にされすぎてないか?

 

我々はささいなことでも、【失敗=悪】にされすぎてませんか?

それこそ子供の頃からです。

 

親の言うことを聞かない=悪

テストでいい点取れない=悪

いい大学に入れない=悪

いい企業に就職できない=悪

上司の機嫌を取れない=悪

 

私の思い込みすぎですかね?

ともかく。

多かれ少なかれ、我々はこれらを「悪」とするニュアンスの言葉に大いに触れて
育って、そしてその延長で生活してる人が大多数だと思うのです。

 

でも、これってすごく窮屈じゃないですか?

なんでもかんでも悪にされて、その詳細も教えてもらえず、
苦しさの原因をもわからない。

…苦しくないですか?

 

何やってもいきなり「はいだめー!」と一発退場くらう感じですよね。

それってすごく怖い。

何を基準にしたらいいかわからないって不安ですよね。

 

こんな怖くて苦しい価値観が当たり前になってる自分ってどうでしょうか?

苦しくないですか?

 

だからこそ私が声を大にしていいたいのは

失敗する権利があるんですよ!ということです。

『苦しいのが当たり前でそれが人生だ』なんてクソくらえです。

そんな苦しい価値観を当たり前にされるのも、繰り返すのも

もう散々じゃないですか?

なので、読んでくださったあなたにはもう一度伝えたいんです。

 

「あなたには失敗する権利がある」

 

 失敗する権利を認識してると「失敗が成功の元」になる。

 

ここで認識して欲しいことは、

  • 失敗する権利は誰かに認められて生まれるものじゃなくて、
    生まれながらにして誰しもが持つ権利で当たり前に存在していること。

 

  • 「失敗しちゃった!次は頑張るよ!」を安易に肯定するものでもない。

ということです。

 

失敗の権利があるということは、
失敗の原因を安心感をもって探求する権利があなたにはある。
とも言い換えら得ます。

つまりは「なぜ失敗したか?」を細かく振り返り原因を突き止め、
再度チャレンジする。という過程を繰り返し行う権利がある。ということですね。

これが「失敗は成功の元」の正しい行動です。

 

逆に「失敗=悪=一発退場!」に基づくとどうでしょう?

これって原因をさぐれないんですよね。

退場したら原因探求のステージに立てないのです。

つまり失敗から学べないし、繰り返しもできない。

…これじゃなにも出来なくなるのも頷けますね。

 

ちなみに。

『悪いことをしたら、罰を受けてから再チャレンジならいいよ!』というもの。

子供の時、よくありませんでしたか?

おしおきや反省。
体罰とか反省文とかね。(反省文ってまだあるのかなぁ。)

これも失敗=悪の定義に基づいた行為ですね。

 

失敗したら罰がある、辱められる、痛みがある』というメッセージは、
次のサイクルへ向かわせる行動を阻害するのに十分な力を持ちます。

 

罰があるっていうのは、安心感とエネルギーを奪う行為です。

【失敗→原因探求→原因発見→対策】を安心して行う前に、
【失敗→罰を受ける】が入ると、次へ向かうエネルギーを奪われるんですよね。

子供からしたら大人から罰されるのってすごく怖い行為ですよね。

恐れる方にエネルギーを持って行かれてしまうことも、容易に想像できると思います。

【失敗→原因探求→原因発見→対策】のサイクルに戻れなくなるのも頷けますね。

エネルギー切れじゃ、行動を起こせないですからね。

罰があると、結局【失敗=悪】から抜け出しづらい連鎖は止まらないのです。

 

 失敗してはいけない場面があるから、失敗しておくし失敗について考える。

 

もちろん失敗してはいけない場面=成功したい場面は、人生に多々ありますね。

社会的に禁止されている行為もモチロンあります。

事故にあって初めて事故について学ぶ、じゃ死んでしまう可能性もありますからね。

だからこそ、失敗=悪にして禁止、恐れを使った抑圧をするのって危険なのです。

そこから先に進めない・進み辛くする行為ですからね。

これを「失敗しちゃった!次は頑張るよ!」にしても解決はしません。

進んでないので。

失敗=失敗なのです。単なる出来事なのです。

あなたの自身の価値を揺るがすものではありません。

出来事だからこそ、そのあとの扱いを選べるようになります。

出来事の捉え方は、私たちが選択することができます。

探求することも、逃避することも、あなたが選べます。

あなたは、何を選びますか?選ぶことで、何が起こりそうですか?

いつだって、選ぶ。

その権利を生まれながらに得ていることを、忘れないでください。

 

 

 …おまけの推薦図書。

 

 

世界一やさしい問題解決の授業―自分で考え、行動する力が身につく

世界一やさしい問題解決の授業―自分で考え、行動する力が身につく

 

 

全て行動から学ぶんじゃ非効率だし、事故で死ぬかも!って先ほど書きましたね。

なので、行動を選ぶ筋道があった方が、行動するにも安心しませんか?

じゃあどんな風に行動を選んでいこうか?出来事を捉えていこうか?

そのためのガイドマップ・入門書です。

お子様向け〜と本書には書いてありましたが、大人の問題解決の入門書としても最適だと思います。

 

それでは本日はこの辺で。

 

メルカリが教えてくれたこと 〜需要は決められないし可能性は落ちている〜

こんにちは。オオバナソケイです。


突然ですが

私はミニマリスト寄りの生活を心がけています。
そんなにストイックじゃ無いですが、
1K暮らしですし、モノが多いと掃除が大変だし息がつまる!
という理由で、定期的、半年に一度は断捨離するんですね。
いくらミニマリスト寄りとはいえ、あくまで「寄り」ですから。
多少のモノの増減はあります。
そして、もう自分に必要ないものはどんどん手放す。

 

そんなわけで、先日よりせっせと断捨離しております。
そしてそして。
言わずと知れたフリマアプリ「メルカリ」を使ってみよう!
と思い立ったのです。
(嘘、ちょっと金欠なのです…これはホント。。)

 

 

【目次】

 

 

 あ、そんなにあっさり売れるんですか…!?

 

詳細は載せませんが、
洋服、自転車用品、音楽練習用品を出品しました。
ちなみに初出品です。

会員登録→出品の流れもえらく簡単ですね…(驚)

一番驚いたのが、出品5分後に買い手がついたこと。
え、そんな?飛びつくような品だった?とスマホ片手に驚きましたよね。

あとで考えたら、一番専門性の高い商品だったからこそかもしれません。
そして、いそいそと発送準備。
あまり自分からの発送経験がないもので、初めはココで一番時間とりました。
梱包の方法や、購入者さんとのやりとりなど…
このあたりは検索でどうにでもなることでしたね。
やってみればなんてこともなく、このあたりもクリア。

インターネットって便利だなぁとしみじみ思います。

そしてヤマト運輸さんに持ち込み発送。
(2件目からはコンビニ発送も利用)

そして後日メルカリアカウントにはポイントが振り込まれる。

 

簡単だぁ…(驚)

 

驚きと感動の連続で初出品・初売買を終えることができました。

 

 

正直売れないだろうと思ってました。

 

「出しても売れないんじゃないかなぁ?」

「売れないんだったら早く場所開けたいし、捨てた方が早いんじゃないか?」

などの不安・疑問を抱く方も少なくないんじゃないでしょうか?

モチロン私も思っていました。

不安でも実行する行動力や動機あれば、きっともっと前に使っていたでしょう。

それに、出品してからも正直売れないと思ってました。
しかも私は「売れなかったら恥ずかしい」とも思ってたので、
そこも躊躇ポイントだったんですね。
でも、実際は売れているわけです。

行動してみることで、立派な成功体験を得ることができました。

ホントに、やってみないとわからないというのはこのことですね。

 

 需要は私の決定権の外にある。

 

平たくいうと不安だからやらない。っていうのが今までの考え方たったんですが、

怖くても実行することで、少し視線が変わりました。

可能性は自分に見えてないだけで、実は世の中に沢山あるみたいです。

 

需要(=可能性)は私には決められないけど、

行動は選べるし、当たり前の結果が生まれる』のです。

 

私が大切に思っている言葉で、

 

主よ、変えられないものを受け入れる心の静けさと、変えられるものを変える勇気と、その両者を見分ける英知をわれに与えたまえ。

 

という言葉があります。

聖フランチェスコの言葉ですね。

 

この場合の変えられないものは「需要」「可能性」ですね。

需要や可能性は私以外の人の欲求です。

私には操作できません。

 

では変えられるものは?

「自分の行動」ですね。

今回の私なら「不安はあるけど、出品してみる」でした。

我々は自分自身のことしか選ぶことができません。

この両者の違いを区別できないと、

不安で行動できなくなったりと、ちょっと損をしてしまうんですね。

これが見分ける英知なのでしょう。

 

この三つの力の意味を深く体感する出来事となった、

初めてのメルカリ出品でした。

 

そんなことで、オオバナソケイのフリマアプリ体験はひとまずここまです。
おかげさまで恐怖が消えたので、また利用してみようと思います。

また新しい気づきを得たら、続編でお会いしましょう。

それではまた。

 

 

 

感情を出すアナタが知りたい。善悪はないから。

こんにちは。オオバナソケイです。

先日の台風、皆さんは被害ありませんか?

また、皆さんの周りでも大なり小なり日常と違う動きがあると思います。

 

私は大阪在住です。もう本当に怖かったです。

元々仕事も休みだったので一日家にいたのですが、

聞いたことのないような音、目の前のビルの屋上からブルーシートが飛ぶ様が見られました。

見たことのない景色に怯えました。

昨日の日中、市内を車を運転していましたが、信号機が歪んでるんですよね。

南のほうでは信号の動かない場所もちらほら。

道路に倒れている木なども見かけましたね。

これも本当に怖かったです。

事故の可能性だってあったわけですからね。

 

 

…ここまでで「怖い」ってたくさん書きましたね。

「怖い」も立派な感情です。

「喜び」「悲しみ」「怒り」と同じなんです。

だから「怖い」を感じることも大事なんですよ、というお話しから。

 

【目次】

 

 

「感情を隠すこと」に囚われすぎてませんか?

「こんなの平気だよ」「大丈夫だよ」「なんでもないよ」

いろんな言葉を使って、私たちは強がりますね。

でも本当は大丈夫じゃないとき、ありますよね。

怒り、恐れ、悲しみを相手に悟られまいと振舞うことは多いと思います。

これが悪いことだとは私は思いません。

社会生活においては、必要とされる場面はあるでしょう。

ですが、これは対相手に対しての話。

ここで大事にしたいのは、対自分に対してのことです。

「平気」「大丈夫」「なんでもない」の対相手への言葉で、

あなた自身までなんでもないことにしていませんか?

あなたの大切な感情をなかったことにしていませんか?

 

結論から言うと、感情って無くならないんですよ。

きちんと感じるまでその出来事に対する感情って終わらないんです。

ひどいものは何年、何十年も引きずります。

 

ということは、「大丈夫」で蓋をしたものは、ずっと終わらないんです。

どうでしょう?ちょっとイメージして欲しいんですけど、

あんまりいい感じがしないと思うんです。

怖い、悲しい、怒っている自分を無視し続けるとも言えるんです。

この感じが好きな人って少ないと思うんですよね。

そんな風に自分を扱いたい人は、そんなにはいないはずです。

 

感情を隠すことのデメリット

追い討ちをかけます(苦笑)

もっとざっくり言ってしまうと、感情って呼吸と同じなんです。

当たり前にあるもの。当たり前に行われる動作ですね。

つまり、感情を隠す=呼吸を潜めるor止めてしまう とも言えるんですね。

「息を潜める」という単語がありますが、これってどういう状況でしょう?

辞書から引用すれば

そこにいることを知られないように、息の音が聞こえないようにじっとする。

ことになります。

『そこにいることが知られないように』というのは、『存在を認知されないようにする』こととも言い替えられます。

…これ、無視とも言えませんか?

存在を認知されない=無視 ですからね。

すなわち感情を隠すというのは無視に繋がります。

呼吸を止める、なんてもっと直接的ですね。すなわち「死」です。

息をしなかったら死んでしまいますよね。

 

感情を隠す=「無視」や「死」に繋がる

 

これ以上のデメリットはないでしょう。

 

感情表現は相互理解を深める

ここまでデメリットを書いた後です。

あとはその逆を考えてみたら答えが見つかりやすくなりますね。

 

 

情動は社会的な生物種においては、2つの意味で役立っていると言える。1つは情動が引き起こす内的情感と身体的変化は、私たちに一連の特定行為を遂行、あるいは回避させる。

もう1つは、情動の外的表出は他者に情報を付与し、他者が私たちの経験から学習することを可能ならしめている。

 

ディラン・エヴァンズ 『感情』より

 

 

感情 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

感情 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

 

 

引用の文がちょっと堅苦しいですね。

注目して欲しいのは、『もう1つは〜』のあとです。

 

ここでいう『情動』はイコール感情ですね。

平たく言うと、

感情を表現することは、相手に情報を与えて学習させる効果がある!

ということですね。

自分の感情表現は、相手に情報を与える効果があるんです。

これはどの感情に対しても等しく平等ですね。

当たり前のことですが、

相手に情報を与えなくては、貴方のことをいつまでたっても相手は理解できません。

何に喜び、何に悲しみ、何に怒り、何を怖がるか。

これは貴方を知る上で大事な情報なんです。

貴方と世界がどう関係を作り、

どうやって現実、すなわち貴方の人生を作るかを考える上で重要な情報です。

『こんなことで怖がる自分が恥ずかしい』なんてことはないんです。

だって怖いんだもの。怖いという事実があるんですもの。

その怖さを貴方自身は認めていいんです。

私は〇〇が怖い。私は〇〇が悲しい。

全部認めていいんです。

この〇〇に入ることは、大半は過去のことです。

起こってしまった過去は変えられないですからね。

同じようにそこで生まれてしまった感情も、一緒に認めてみませんか?

それが呼吸のように自然な、当たり前の感情表現の一歩目に繋がっていくでしょう。

 

感情に善悪はない

そんなこと言っても

「怖い」「悲しい」「怒ってる」ことを表現することに、

躊躇してしまう人は少なからずいると思います。

 

特に日本の習慣でしょうか。

男の子は「泣いちゃいけない」

女の子は「おしとやかに、にこにこしなさい」

なんて言われて育った人も私だけじゃないはずです。

 

これって、悲しみや怒りを禁止する言葉なんですよね。

小さい頃から禁止されてきたから余計に出しづらい環境に、我々はあると思うんです。

 

でも、これって実はあんまり健全じゃないですね。

なぜなら、前述の通り。

感情を隠すことは、「死」に繫がる からです。

 

呼吸にいい、悪いが無いように、感情は善悪で区別されるべきものじゃ無い。

状態の変化、なんですよ。

呼吸って体の状態や動作によって変化が激しいですよね?

それと同じでいいんですよ。

感情に善悪はない。

だから感じてはいけない感情なんてものは、ない。

泣いちゃいけないなんて嘘です。

にこにこして押し隠してなきゃいけないなんて嘘です。

安心できる場所、せめて自分自身に対しては

素直な感情を感じてくださいね。

 

 

おわりに

 

…などと偉そうに書いてますが、

私自身この考えが言葉になり定着するまで、四年かかってます。

しかも心理セラピーの手を借りながらです。

自分一人じゃ気付けないところにいた時期がとても長いです。

でもです。

一歩踏み出してみないと何も出来ないままです。

その一歩すら怖がっていました。感情を表現できずに死にかけててもです。

命に代わるものなんてないはずなのにね。

それでも怖いを理由にせずに踏み出したので、なんとかこうして言葉になりました。

だから、あなたもきっと大丈夫です。

 

まずは、一歩からですよ。

 

体の「こわばり」に気づく

こんにちは。オオバナソケイです。

 

自分の体に気づく

 

私はヨガを続けて4年ほどになります。

ヨガのいいところは30個ぐらいあるんですけど、

その中の一つに、「自分の体の状態に気付きやすくなる」ことがあります。

あれ、今日はなんだか右手の動きが悪い、とか

左右非対称さが気になってくるとか。

自分の体のいい状態を知っておける、ということですね。

自分の体に気付きやすくなると何がいいって、早めのケアができること。

つまり最終的には、早めの対処を打てる、ということですね。

そんな体への気付きの中で、今日は「こわばり」についてです。

 

目次

 

 

 

 

 

 

 

 

体のこわばりってどんなこと?

 

 

体のこわばり、といえば

・筋肉が固まって、動かしにくくなること

・関節の動きが制限されている感覚

・冷えて固まっている感覚

なんて定義されますね。

各々の状況によって原因は変わりますが、共通することを挙げれば、

固まっていること ですね。

 

辛いですよね。固まってる、という状態。

私も自覚することがあります。

小さいことなら集中しすぎて同じ体勢を続けていた時。

長期のものなら、様々な原因で当たり前になってしまったこわばり。

気づかないうちに、私たちの体は想像以上にこわばってるかもしれません。

 

こわばると何が起こるの?

 

やっぱり「固まってる」ってあんまりいい状態ではないんですよね。

当たり前に動くはずのものが、動かない。

その状態はストレスを生みますね?

そしてそれを放置するとどうなるか。

さらなるストレスを生んで悪循環へ・・・

なんて状態も想像に難しくないですね?

 

こわばりと心

 

ここまでは主に「体」の症状をメインに書いてきましたが、

ここで「心」に触れてみましょう。

ここからは「バイオエナジェティクス」の理論に基づいて

考察を進めます。

バイオエナジェティクスとは

 

参考図書↓

からだは嘘をつかない―うつ・不安・失感情、“からだ”からのアプローチ

からだは嘘をつかない―うつ・不安・失感情、“からだ”からのアプローチ

 

 

本当に簡単に紹介すると、

「心=体、体=心」という考えを基本に、諸症状を読み解く。

という理論が基本になっています。

心身一体とはよく言ったものですね。

 

さて、こわばりと心の話に戻ります。

 

「心=体、体=心」に基づけば、

体がこわばっているなら心もこわばっている。ということになりますね。

こころのこわばりってなんでしょうね?

様々な症状は挙げられますが、ざくっというと

こころがこわばっている=こころの機能が停止している

と考えることができますね。

心の機能停止 っていうのは、あんまりよくなくて

小さいものだと得手不得手くらいで済むかもしれませんが、

ひどいものだと失感情、鬱 なんてものも考えられますね。

実際、うつ病統合失調症の方は体が硬い=こわばっているという話も聞きます。

体が先か、心が先かはわかりませんが、

筋トレすると精神が健やかになる。なんて巷では言いますが、

そんな話も聞くとやはり呼応しているんじゃないか?と頷けます。

 

これに関しては私の実体験があります。

私の場合は体のケアが先だったんですね。

駆け込むようにヨガを始めてから、心理セラピーの力を借りて心身の健康を取り戻す。

という過程が過去にありました。

私はヨガを始めてすぐ、体の変化が顕著でした。

そこで心も一気に動き出した。という感覚を覚えています。

今では体が動くのと同じように、自分の心の状態や変化にも気付きやすくなったなぁと思います。

心の変化は、体がエンジンになることもあるのです。

 

 

体がきもちいいことが本当に気持ちいい。

 

これは私の好きな言葉であり、物事を感じる指標でもあります。

心と頭は嘘がつけるけど、体は嘘がつけない。

言い換えれば、体が嫌がることは、本当に嫌なんですよね。

割とこれを信じていいと思ってます。

昔の人はよく言ったもので「肚」という言葉があります。

肚に落ちない、肚が決まらない。この感覚ってどこか気持ち悪い。

どこかで拒絶してるんですよね。

じゃあどうやって肚に落とすか?

それはやはり体を使って覚えるのが一番なんですよね。

スポーツやダンスも同じことが言えるでしょう。

動くようになった体が、表現をより自分のものとし、豊かさを増していく。

だけど、こわばっていたら動けないし表現もできない。

だからいつまでも肚に落ちてこない。

感覚がわらかないまま、またわからない恐怖でこわばっていく。

そんな悪循環が、こわばりにはあるんじゃないかと思います。

 

おわりに

 

正直言って、こわばったままでも生きていくことはできます。

こわばりを無視しても死ぬわけじゃありません。

ですが、私がここで言っているのは「生きるをひも解く」ことです。

「ひも解く」っていうのは

より深く、より良く、魅力的に生きることを求めることなんですね。

こわばってるより、やわらかい方が、魅力的に思えませんか?

こわばっていることを否定する文章じゃありません。

だけど「こわばり」も「やわらかさ」もわからないで立ち止まってるくらいなら、

やわらかくなる方を

選んでみるのもいいと思うんですよね。

 

ということで「こわばり」についてでした。

 

 

 

 

 

 

はじめまして オオバナソケイです。

はじめましてのご挨拶

 

はじめまして。

オオバナソケイと言います。

名前はちょっと変わってますが、

「オオバナ」が苗字で「ソケイ」が名前みたいな感じです。

わかりにくいんで、「ソケイさん」と呼んでほしいです。

よろしくお願いします:)

 

ソケイについて

挨拶だけでは味気ないので

簡単にプロフィールを紹介させてください。

 

・名前:オオバナソケイ

・27歳独身 女

・大阪在住(もとは関東出身)

BPD(境界性人格障害)→寛解

RTY200 取得に向け勉強中

体感覚重視ライフの体現

 

というのが、現在の私です。

太字の部分。これが特に現在私が大事にしていることで。

これらを一言で言うなら

”ココロとカラダの視点から「生きる」をひも解く”

このブログのサブタイトルでもあります。

『心を体現するカラダ』と『身体から生まれるココロ』がある、という

考えに基づいた考えを主として、このブログで発信していきます。

 

 

…といっても、私は心理学の専門家じゃありません。

だからこそ、体感覚重視なんですよね。

体は、誰にだってある。意識を向ければ誰もが気づける。

心のことにはいきなり気づけなくても、

体なら見て、感じやすい。なおかつ共感しやすいですよね?

みんな持ってるものですから。

だから私は体感覚重視ライフを体現しようと思いました。

 

過去の精神疾患の体験も含めて、時に身を切りながら(!)

「生きる」ことを努めます。

 

どうぞよろしくお願いします。

 

 

ちなみに

 

note、やってます。

 

↑すでにいくつか記事があります。

こっちでも心理系のことを書いてますね。

 

note、書きやすくて好きなんです 笑

ですが、ホームとしてブログを持ってみたくなりました。

これからどうぞよろしくお願いします。